自己破産からの再出発~体験記~
借金600万円の自己破産体験記。

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免責という消費者保護について考える。
なぜ自己破産の免責という多重債務者保護が認められるのか。

 その根本的な理由を私なりに考えお話したいと思います。はじめにお断りしておきますが、けっして「免責があるから多重債務者は保護されて、背負った借金に対して責任がない」ということをいうものではありません。返せないほどの借金をしてしまうほどに借りる行為というのは責任が問われることに違いはありませんから。ここで考えることは、その責任を免除するその根本的な理由ということです。
 まず反対意見をあげると、債務者は、死ぬまで働いて債務の弁済に務めなければならない。「人間に値する生活を営む権利」などいらない。このような考えをどこまでも責任を負わす考えを「無限責任の原則」といいます。 一方、弁済が一生続くとなると債務者は生活が向上するという希望を失い「人間に値するといえる生活」が送れなくなりますが、無限責任の原則では「それでもよい」というふうに考えることになると思います。

・・・しかし、現代の社会では「人間に値する生活を営む権利」を保障すると考えられています。

 なぜそう考えられているかというと、中世の頃のロックの自然権思想にまで遡ります。ロックは「人間は生まれながらにして自由・かつ平等であり生来の権利を持っている(自然権思想)」といいました。人間には「個人の尊重」があるといった考えから、個人の尊重を守るため、自由革命が起こされ憲法が作られ自由が勝ち取られてきた中世から近代への歴史があります。日本もそうした思想を根本に捉え、憲法が作られ→民法があり→商法があり→利息制限法や貸金業規制法や破産法などが取り決められています。他の多くの国(アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスなど)もそうした歴史の流れを踏んでいます。日本はそうした欧米の思想や憲法や民法などを輸入してきた国で、諸外国に習ってきた経緯があります。

 過去の免責制度の合憲性が問われた判例では、破産者といえど人間に値する生活がおくれないのでは、「債務者は概して資産状態の悪化を隠し、最悪の事態にまで持ちこむ結果となって、却って債権者を害する場合が少なくない(最高裁判旨昭和36年12月13日)」と言って、免責制度は目的達成のための手段として合理性があり、合憲であるといっています。つまり、現在の日本の立憲主義のもと、自己破産による免責は、なんら矛盾するものではないと考えられています。

「債務者は、死ぬまで働いて債務の弁済に務めなければならず、人間に値する生活を営む権利などいらない(無限責任の原則)」という考えは、少なくとも中世ならまだしも近代社会の先進国における一般的な考えではないと思いますがどうでしょうか。それで返済できなければ自殺してもよいというような考えは尚更、尋常ではない考えとだ思われます。いいかえれば、そのような考えは反社会的であります。もっとも、免責も戦前にはありませんでしたから、自己破産もそれまでは無限責任的で懲罰的なものでした。アメリカ法にならった免責制度が導入され、債務(借金)が免除されるようになったのは戦後昭和27年のことです。

 ただ、大切なのは、憲法が許すからとか、法律が許すから、債務者の人間に値する生活(個人の尊重)が保障されるということをいっているのではありません。たとえ憲法が無くても、法律が無くても、その背後には「個人の尊重(人間に値する生活)」を誰しもが生まれながらに持っているということです。それゆえ具体的な表れとして、現在それが憲法や民法や破産法(免責制度)などを通して「人間に値する生活を営む権利」として保障され、そして具体化されている言うことではないでしょうか。

 日本に見られる免責制度の導入の遅れは、個人の尊重に対する意識の薄さにもあったのではないかと思います。個人の尊重の考えに基づく憲法など「人権」といものに対する意識の薄さは各国の憲法制定の歴史と比べてもその時間差は大きいものです。イギリス革命1689年、その100年遅れでフランス革命1789年、更にその100年遅れで日本に個人尊重の欧米的自由の思想観念が入り1889年に憲法(明治憲法)が制定されています。そもそも人権などの意識は数百年遅れているのです。

 「人権」や「自由」などというと、なんとなく思い感じがして、とても自然な気がしないというのは日本人だからではないでしょうか(私だけ?)。 欧米では自然ですから、彼女に「I LOVE YOU(英語圏)」と日常で自然にいえますが、日本で「愛してる」というのは年寄り程言いにくいのでは。。。これは戦前の日本における「自由主義」的な発想(当時明治・戦前は憲法によってもなお自由が法的に拘束されていた部分がある)の違いによるものではないでしょうか。「個人の尊重」や「自由」もわざわざ言うものではなく、本来自然なものなのです。「フリーダム」と叫べば「この人なに言ってるの」と変な目で見られるのではないでしょうか(犬井ヒロシのそれがお笑いのネタになるくらいですから)。それが日本の風潮です。

 本当に困った時、公害や、事故や、障害にあった時、初めてその本人のみ「人権」だと気づき高らかに「人権の侵害」だと叫ばれるのみです。その日常の意識の薄さは日本では刑事事件などの容疑者逮捕の報道などで顕著に現れています。まだ裁判もなにも始まっていないのに、容疑者はすでに「犯罪人」扱いです。「無罪の推定」という観念がこの日本のマスコミにはありません。また諸外国では法的に逮捕後容疑者に弁護士が付きますが、日本では付かず、起訴後になります。そうした人権の薄さから自白の強要など弊害がもたらされ、その結果である悪しき誤認逮捕や冤罪が後を絶ちません。

 少々人権意識に乏しい政策的、また国民意識的な一面も顕著に見られますが、本来自然である「個人の尊重」とい理念は少なくともこれら欧米諸国からの理念を受け入れ、憲法を通じて現代日本には確かに立憲主義のもと根本に備わっています。したがって、「死ぬまで働いて債務の弁済に務めなければならない」というような無限責任的な考えは、少なくとも「個人の尊重」を根底に備える現代社会の中では受け入れられるものとは思われません。

 よって自己破産の免責という多重債務者保護が認められる根本的な理由というのは、かかる「個人の尊重」に求められるのだと思います

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